写真が身近な行為になって、かつてのような儀式的な写真を撮る機会が少なくなってきた。私は、趣味として小難しい写真行為を好んで行なってきたが、最近はそんな環境から少し離れてしまった。ポケットから携帯を取り出して写真を撮るのも億劫になり、写真を共有してもらうほどだ。
写真という媒体については、今でも大きな影響を社会に与えていると思う。それは、人々に感動を与える面でも、記録媒体としてもだ。とはいえ、活動写真が登場してからは、もろもろの解像度という観点では、写真は劣っているかもしれない。マクルーハン理論的には、解像度が高いと考えた方がいいのだろうか。まあ所感として綴っておこう。
話を戻して、写真行為についてだ。写真を撮る行為を他者が代位したとしても、写真が即座に手元にあるということが可能な21世紀に、わざわざ儀式的な行為をしてまで写真を撮る意味はなんだろうか。これは、一部のマニアが熱狂的に好んで行うというものでなく、一般的な人々にも言えることだ。それは例えば、七五三での写真館の写真や、結婚式の写真、就職活動での写真。これらの写真は、ある種の通過儀礼的な要素があるかもしれないが、手元の携帯で済ませたくないはずだ。どうしてわざわざ手間のかかる写真を撮るのだろうか。そしてどうして、どうしてわざわざ手間のかかる写真を撮ってもらうのだろうか。
形として写真を複製してしまうと、特別な写真になるのかもしれない。儀式的な写真は、かならず紙媒体に複製する。そして、そこから複製されることはない。この複製できなくなる点がおそらく最も重要なのだと思う。通過儀礼的に撮影された写真がデータで共有されると、おそらくそれは、特別な写真ではないし、儀式的な写真行為に当てはまらない。たとえ、大型写真機を使って1時間使って撮影されたとしてもだ。
一方で、紙媒体に複製され、そこから再び複製ができなくなった瞬間に、その写真は特別なものとなり、たとえ携帯で撮影された写真も儀式的な写真になりうるのかもしれない。それはつまり、紙の後ろにphoto byと入れられるという意味でだ。写真は、ネガがあればいくらでも複製できる点をベンヤミンらが指摘していたが、おそらく、ネガから写真を複製できても、複製された写真から複製することは困難なのである。この一度複製されると固定化されてしまう点がアウラの概念の一つで、人々が忌み嫌ったものなのかもしれないとふと思った。
やっぱり、暗室に入って年に何枚かは写真を印画紙に焼いていきたい。今年は、ネガをいつもより多く作れそうだ。